庭鳥

ここに描かれているのは、お百姓さんの庭先で飼われているとりたちばかり。庭で飼われているからすべて庭鳥でもよかろうと、タイトルをつけたのだが、庭鳥連中がこの場面で何をいっているのかというと、「なんてまあ、ばかばかしい!」「そんなことで、しあわせになれるはずが、あるもんか!」なのである。「幸せ」ってことがわからなくて、ふくろうに話を聞きに行ったのが、結局、ふくろうに向かって、口々に叫ぶ庭鳥連中の姿。絵本が好きな方は、「ああ、あの本ね」とピンときただろうか。

庭鳥にとっての幸せってなんだろうか?
2016年、鳥インフルエンザがしばしば話題になった。10年ほど前、茨城で鶏の世話をしていた時分、「鳥インフルだ、パンデミックだ」とガヤガヤとしている最中、見えないウィルスに対してできることは、これといって万全な対策はなく、ともかく、「気をつけることぐらいだな」という印象をもった。数羽の発症が見つかれば、元気であろうとなかろうと皆殺しのさっ処分。数十万羽が数日のうちに命を奪われてまっくらな穴の底へさようなら。巨大な卵工場で働いている彼らは、揺籠から墓場まで、食べること飲むことに困らないのは兎も角、その命が花ひらくことなく、卵や肉になって飲み込まれていく。なんか、悲しい。

家畜と人間の命どっちが大切なのか?
なんて聞かれても困る。どこか問いの立てかたがおかしい。生命の価値を問うってことには慎重であるべきなのだろう。鶏はもともと、セキショクヤケイという東南アジアに分布する鳥がルーツになっているそうで、つまりは野山で自由に暮らしていた。人が捕らえて飼いならしたのか、人の周りにある農作物や食料を求めて、彼らから近づいてきたのか。どちらにしても、人と野鶏の距離は、縮まって、両者の関係性のなかで、お互いに変化していった。鶏は、肉付きがよいものや卵を多く生むものが生き残り、人間は鶏を養うために、「飼うという営み」を紡いでいった。やがて、セキショクヤケイは家畜化されて、鶏となり、もうたくさんの品種が存在する。鶏となり、人の手を借りて大いに繁栄している。一方、人も鶏に合わせて、家畜を飼うということを探求し続ける営みによって家畜化されてきた。鶏と人はお互いにハイブリットな存在なのだ。鶏だけではなくて、すべての家畜の命と、人の命はそりゃもう複雑に絡まりあっている。

ふくろうの語ったこと
庭鳥たちから見ると「しあわせそう」に見えたふくろうの語ったことは、四季折々の自然の美しさ。幸せが自分たちの内面ばかりなく、外から与えられるものなのかも知れないと妙に納得。それと同時に、野生から隔離されてしまった庭鳥たちは、もしかするとその幸せに出会うことがないのかもしれない。たとえ、教えてもらっても、それに気づけない。それは不幸だ。でも、他人事じゃないなと、四季折々の自然の移ろいゆく美しさを語るふくろうよりも、妙に忙しく餌をついばむ庭鳥連中に親近感を覚えたりもする。なので、彼らともう少し親密に付き合って見たいなぁ、なんて思うのであった。

屋上に庭鳥!?
だが、街場で仕事をしているから、「家畜を飼う」なんてことがライフスタイルとして難しさはある。ずーっと、企んでいてもなかなか「鶏を飼う」というところまでたどり着けない。街場に庭鳥連中を連れてくるとどんなことが起こるだろう。そのグラデーションを想像しただけでたまらなくにやけてしまう。彼らの中にだって、「田舎よりも街場が好きなのよ!」ってめんどりちゃんがいるかもしれない。そうすると庭ビル生まれ、庭ビル育ちの庭鳥の誕生だ。街中の屋上で、彼らは幸せに暮らせるだろうか?田舎よりも街場が好きなのよ!ってめんどりちゃんがいるかもしれないし、街場の屋上から忙しく働くニンゲン様を眺めるのも御一興かもしれない。「屋上に庭鳥?!」そう、庭ビルの屋上に庭をつくう!

よしよし、まずは、有精卵を探しに行かねばなるまい。

しあわせな ふくろう
オランダ民話
ホイテーマ文 チェレスチーノ・ピヤッチ訳 おおつか ゆうぞう訳 福音館書店

Susumu Fujita

20代から庭とこどもと本にとりつかれ、いまだその間を行ったり来たりしている。学生の時は旅人に憧れながらも、卒業後、土から離れられない農民になり、鶏と豚と野菜の中で過ごす。その後、札幌に戻り、絵本屋になる。庭プレス、ひげ文庫主催。